書を捨てず対話をしよう

ひとはひとを理解できない

「対話」という言葉を私たちが使う時、それはお互いに歩み寄るための本質的な会話をするという意味で使われます。

本質的とは、これまた抽象的な表現ですね。私の想像する本質的なものとあなたが想像する本質的なものは違うものかもしれません。

ただ、いつもより深いものであること、日常生活で表出しにくいもの、というイメージは同じものではないでしょうか?

対話デザインを起ち上げるにあたって、私がメンバーと意識したことは「相手の背景を想像する」ということでした。

私たちは外見で相手を判断し、行動で人となりを分析し、言葉づかいで性格を推測します。
こうして見ればお分かりいただけるかと思いますが、知覚できるものしか判断材料になりません。

けれど、あなたがそうであるように私も私の身に起きたすべての出来事を他人と共有はできません。

ましてや、その瞬間瞬間に沸き上がった言葉にできないような感情や、深い感動を私ではない誰かと共有することは不可能です。

なにが言いたいのかというと、私たちには他人を100%理解することはできないということです。
なぜなら、ひとの本質は、外部からは知覚し切れない領域にもあるからです。

書のなかには誰がいなかったか

それでも私にはひとを知りたいという強い衝動がありました。

私を理解するためにひとを知りたかったし、私とは違うものの考え方や価値観を愛おしいと思いました。

より深くひとを知るために、大学在学中は専攻していた学問をそっちのけで人類学や脳科学、生物学、心理学、哲学、宗教学など幅広く講義を受けていました。

お金がなかったので、関連する書籍を図書館で読み漁っていました。

知覚できない領域を、知識によって補おうとしたのです。

本のなかには、自分ひとりでは知りえない世界が広がっていました。

ニュートンが残した有名な言葉に「私がひとより遠くを見渡せたとするなら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです」というものがあります。

この言葉は先人の積み重ねがあったから、真理に辿り着けたという意味で使われました。

本を読むということはまさしくニュートンの言葉に近いものでした。

私は図書館にいながら、古今東西の人類の営みにアクセスできました。おかげでぼんやりとではありまずが、私なりの解釈でひととは何かという全体像が見えてきました。

一方で、友人や知人は全員が別々の人物で、彼ら彼女らは本の中にはいないことがよくわかりました。

対話と書による理解

結局、ひとを知るためには直接言葉を交わすことが一番だと私は実感しています。

ですが、本を読むことは無駄にはなりませんでした。
本を読むと、話の切り出し方が変わりました。

例えば私たちとは死生観が大きく違う部族の話を引き合いに、相手に意見を求めると、回答の明確さや哲学の表出のしかたがガラッと変わりました。

これまで中々引き出すことができなかった本質的な会話を、対話を、引き出すことができました。

だから私は、今も本を読むことを欠かしませんし、ひととの対話も欠かしません。

ふたつあるから、ひとへの理解が深まります。けれども、決して忘れないように心掛けていることは「ひとはひとを理解できない」ということです。

知識と経験を駆使しても、私は私でない誰かの解像度を上げることはできても、理解することはできません。

理解できないから想像をする

沢山のひとと対話を重ねても、色々な本を読んでも、どうあがいても、他人には知覚できない領域をひとは持っています。

その領域になにがあるかを想像せずに、知覚できる情報のみで相手の人格を断定することに何の意味があるでしょうか?

数回しか会ったことのないひとに私やあなたの何がわかるのかと思いませんか?
何もわかりません。

数を重ねても、知らなかった一面は次から次へと出てきます。

だから、安易に相手を理解したつもりにならないように、安易に相手を攻撃しないように、私たちは対話を重ねて理解しようと努めるのです。

相手の背景を想像する態度を育てる。それこそが対話の魅力です。

他者との協力が前提となっている社会で、ますます対話の価値が高くなっていると私は信じています。